2022.03.16

zzz...

Beady!

---------
For the past few days, I have been organizing my preserves on a whim. of course, the expiration dates are long gone. it was also 2014...oh. think more deliberately! (but I don't mind eating it. canned goods, biscuits, etc. calories Wow!!! ←don't try to eat it all in one day!)


taking a walk around the neighborhood.

I was reading a philosophy book in the house and my head was getting weird, so I took a walk for a change and read it outside, but my head was still weird. I felt so stupid.

felt?

oh, I'm stupid already. what the hell did you make me say? you know what I'm talking about!

----------

哲学の時間です。

解答に辿り着くことはない(であろう)問いかけを何度も弁証しています。ヘーゲル先生の弁証法は対立と矛盾を通じて絶対値の高みへ(テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼ)という考えですが、自分の場合はより深みに嵌っている感を払拭できません。すなわち、

・自分は何者か。
・なぜ感動するのか。
・生きる意味はあるのか。

古典ですが、大きくはこの3つです、完全なるブラックボックスです。
特に最初の自我については園児のころに祖母に疑問を投げかけよく困らせていました。そりゃ困るだろうよ!彼女が意識して答えていたかどうかはわかりませんが「心と身体」で説明された記憶があります。デカルト先生の二元論ですね、デカルト先生の当時は宗教と科学の対立を緩和させる狙いもあって宗教には心を科学には身体をという背景もあったようです。考え方としてリーズナブルでなるほど!と思っていましたが、いつしか懐疑的になり唯物論(心も身体もすべて物理法則に従う)のほうがしっくりくるようになりました。そう考えた方が都合が良かったからだけかもしれません。心は物理法則に従う運動にすぎない、となると哲学ゾンビ(意識がなく刺激に対する反応のみ)が登場します、意識があるのは自分だけ(独我論)どころか自分でさえ自由意志を持たない哲学ゾンビ、すべてが物理法則に還元されるのであれば将来はすべて決まっている、その運動を観測しているにすぎないのではないか!ぎゃー!ではこの世界はなんだ?ゲームかショーか?と拗らせていきます。まあこれは死んでみないとわからん。
将来量子コンピューターが世界を解明して有機物の挙動も完全にシミュレートして新しい世界でAI生命体を構築始めて、その舞台で進化していったAI生命体が人間と呼ばれるようになって、その人間が言葉を発明して、、永劫回帰かよ!(ニーチェ先生)とか考えると面白いですよね。

感動について。
ピアノが趣味なので関心が高いのかもしれません。何度も音楽に衝撃を受けていますが、人間は無条件で感動できるのか?音楽は世界共通語で比較することなく感動があるとか、可能性としてはあるかもしれませんが(そう考えていたこともありますが)、たとえば自分はスポーツ(観戦)に興味がなくそこに感動はありません。それを考えると自分の行動を合理化しようとする後付けの仕組みで感動しているのでしょうか。同じ言葉でも人によって捉える範囲が異なるように、背景などの知識により感動の大きさが変わってくると思えます、共感や圧倒も関係していそうです。集団生活で自己防衛する上で脳の報酬系が自分の都合で強化される仕組みを作った?猫も感動することはあるのでしょうか。そういえば現在どこかで漂っているボイジャーには未確認生命体に向けてレコードが搭載されているそうです。まったく文化の異なる(であろう)宇宙人はそれで感動できるのでしょうか。これ人類最大のジョークのひとつだよね。

生きる意味について。
ない。心底そう思います。「なぜ生きているのか、どう生きるのか」より「生きていても良いのか」の不安が強いです。太宰かよ!加えて「いずれ死ぬ虚無感」があったとしてもどうせ生きるのであれば笑っていたいです。どうしたら根明になれるのか!「幸福とは何か」の命題と似ており答えがありません。幸福について少し前に親ガチャという言葉(そんなの運やん!)が出てきましたが、運の支配については「幸運な人だけが幸福になれる」とカント先生は結論しています。パスカル先生も「気を紛らわすしかない!だが惨めだ!(超意訳)」と仰っております。同じような議論が繰り返されるのは、どうにも抗えないものがありそうだ、だけれど努力は報われるもので幸福は万人に開かれていると信じたい、と思う葛藤がありそうです。諦めが良いのか希望が良いのかは場合に依存しますね。
無知と無視による幸福を歓迎するのか?社会貢献や自己実現で幸福を体感できるのか?芸術が可能性のひとつなのか?とぐるぐる問答ですが、気を紛らわすために没頭できるなにかをくれ!生きるために必要なのはこれではないかと思います。
しかしまてよ?これは現実逃避なのか?積極的に生きようとしているのに。幸福論(ラッセル先生)でも似たようなことが書かれています。

珍しく?真面目に書きました。見る人が見るととても幼稚で浅はかで低水準な考察だと思います。きれいに体系づけされていませんし選択的思考(都合のよい解釈)に陥っているかもしれません。でもそれで良いと思っています、というか開き直るしかないのだ!(万能解はありませんし)

たまに哲学どうでしょう?